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では、イエスに従うと決めた今、私はどのように生きればよいのでしょうか?
では、イエスに従うと決めた今、私はどのように生きればよいのでしょうか?
イエスが弟子たちを選ばれて間もなく、山の上に座り、これまでとは違った方法で弟子たちを教え始められました。そこに大勢の群衆が集まると、イエスは、本当の意味でイエスに従うとはどういうことなのかを教えられました。イエスは、さまざまなことについて、はっきりと語られました。祝福されることから、イエスを信じるために迫害を受けることまで。 弟子たちは、神の御国について、忍耐すること、愛すること、光として生きること、祈ること、与えること、神に信頼することなど、数え切れないほど多くのことを学びました。(マタイの福音書 5-7) そしてイエスは、マタイ 7:24でこの教えを締めくくられ、ただ聞くだけではなく、イエスが語られたことを実際に行うことの大切さを教えられました。「わたしの教えを聞いて、そのとおり忠実に実行する人はみな、堅い岩の上に家を建てる賢い人に似ています。」 イエスは、ご自分が地上で生きられたように、弟子たちが生きるための確かな土台を築かれました。その土台は、今も変わることなく、私たちが信仰生活を築き始めるための確かな基礎となっています。 イエスの時代、イエスの教えや行われた奇跡についてのうわさが広がるにつれて、イエスのもとに集まる群衆はますます増えていきました。しかし聖書には、イエスが何度も、ご自分が選ばれた弟子たちを群衆から離れたところへ連れて行き、彼らと時間を過ごされたことが記されています。そのような時間の中で、イエスは弟子たちの理解を深められました。たとえば、イエスが語られたたとえ話の意味や、神の御国についての教えなど、それまで弟子たちが十分に理解できなかったことを、さらに詳しく説明されたのです。(マルコの福音書 6:31;3:7、20;ルカの福音書 18:31;マタイの福音書 17:1)。 今日の生活は忙しく、本当に忙しいものです。しかし、聖書の時代と同じように、イエスは今もご自分に従う私たちと時間を過ごしたいと願っておられます。 だからこそ、イエスと二人きりになる時間を意識して持つことが大切です。静かな時間を過ごし、イエスの優しい御声に耳を傾け、神の御言葉を読むのです。そうするとイエスは、私たちがこの地上でイエスのように生きるために本当に必要としている、導きと知恵、そして理解を与えてくださいます。ヨハネの手紙Ⅰ 4:16にはこうあります「キリストのみことばを実行している人は、ますます神を愛します。それによって、キリストにつながっている人であるかどうかがわかります。自分はクリスチャンだと言う人は、キリストと同じ生き方をすべきです。」
自分の力だけで、キリストのように生きることはできるのでしょうか?
自分の力だけで、キリストのように生きることはできるのでしょうか?
イエスは「山上の説教」の中で、ご自分がどのように生きられたのか、そして神に従う者がどのように生きるべきなのかを教えられました。イエスは地上で生きておられた間、一度も罪を犯されませんでした。そして、神の御言葉に完全に従われました。それが、私たちの目指すべき基準です。マタイの福音書 5:48.イエスはこう言われました。「あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい。」 では、私たちはどうすれば、そのように生きることができるのでしょうか?私たちにはできません。聖書は、完全な人も、正しい人も一人もいないと教えています。(ローマ人への手紙 3:10)ああ、困ってしまいますね。では、私たちには希望がないのでしょうか? 自分の力だけでは、確かに希望はありません。イエスはヨハネ 15:5で、はっきりこう言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません。」しかし、イエスは同じ節で、私たちがイエスにつながっているなら、豊かに実を結ぶことができるとも教えておられます。 つまり、私たち自身の力ではなく、イエスの力によって、神に喜ばれる生き方ができるということです。イエスがこの地上を去り、天に戻られた時、私たちを一人にされたわけではありません。イエスは私たちのために、助け主である聖霊を送ってくださいました。聖霊は、私たちがこの世界で勝利ある人生を歩むことができるように助けてくださいます。聖霊は、私たちの教師であり、助け主です。ヨハネの福音書 14:16にはこうあります。「わたしは父に、もう一人の助け手を送っていただくようお願いします。その助け手は、いつもあなたがたと共におられます。」なんとすばらしいことでしょう!神は、私たちがキリストのように生きられるように助けてくださいます! 聖霊は、イエスが祈られたように、私たちも自分勝手な願いではなく、神のみこころに従って祈ることができるように助けてくださいます。何を、どのように祈ればよいのか分からない時にも、聖霊が私たちを助けてくださいます!(ローマ人への手紙 8:26) イエスが言われたことを思い出してください。「わたしにつながっているなら、あなたがたは良い実を豊かに結ぶのです。」ガラテヤ人への手紙 5:22-25には、聖霊が私たちの内側に神の実を結ばせてくださることが記されています。 「しかし、聖霊が生活を支配してくださる時、私たちのうちに、次のような実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。そこには、律法に反するものは何もありません。キリストに属する者は、生まれながらの自分が持つ肉の欲望を十字架につけてしまったのです。もし私たちが聖霊の力を受けて生きているなら、すべてにわたって、その導きに従おうではありませんか。」 本当に、イエスは私たちのために、たくさんの助けを与えてくださっていますね!キリストのように生きるためには、人生のあらゆる部分で聖霊の導きに従うことが大切です。それは簡単でしょうか?いいえ、簡単ではありません。私たちは間違えることもありますし、時には失敗することもあります。しかし、神はそのために、赦しと支えも備えてくださっています!(ヨハネの手紙Ⅰ 1:9; 2:1)神は私たちを回復させ、キリストとともに歩み続けられるようにしてくださいます。 ゼカリヤ 4:10には、「小さな始まりを軽んじてはいけない」と教えられています。神は、私たちがイエスとともに新しい歩みを始めることを喜んでくださいます。神は、キリストに従うことが一つの過程であり、成長し、学んでいくには時間がかかることをご存じです。神は、私たちが信仰において成長し、勝利ある人生を歩むことを願っておられます。そして神は、この世に打ち勝つために、ご自身の聖霊を私たちに与えてくださったのです!(ヨハネの手紙Ⅰ 4:4)
この世界でキリストに従う者として、私たちは何を求めるべきなのでしょうか?
この世界でキリストに従う者として、私たちは何を求めるべきなのでしょうか?
イエスは山上の説教の中で、こう教えられました。「財産は天にたくわえなさい。そこでは価値を失うこともないし、盗まれる心配もありません。あなたの財産が天にあるなら、あなたの心もまた天にあるのです。」(マタイの福音書 6:20-21)では、これは私たちにとって、具体的にどのような意味があるのでしょうか? 「あの世には何も持っていけない」という、昔からよく知られた言葉を聞いたことがありますか?これは、私たちがこの地上での人生を終える時、何も持たずにこの世を去るということを表しています。どれほど多くの財産を持っていたとしても、それを天国に持っていくことはできません。ヨブも、ヨブ記 1:21で同じようなことを語っています。「「生まれてきた時、私は裸でした。死ぬ時も、何一つ持って行けません。」 この世で、できるだけ多くのものを手に入れることだけに心を向け、永遠に残る神のものを求めない人生は、なんと悲しく、むなしいことでしょう。イエスは私たちに、正しい優先順位を持ち、神に関わるものを大切にし、それを私たちの宝とするように教えておられます。 パウロも、コロサイ 3:23-24で、この地上での働きを主のために行い、天にある永遠の報いを受けることを目指すように教えています。「人に対してではなく、主に対してするように、何事においても心からしなさい。 報酬を下さるのは主キリストであることを忘れてはなりません。キリストは、所有しておられるものの中から、有り余るほどの相続財産を与えてくださいます。あなたがたは、この主キリストに仕えているのです。」聖書の多くの箇所で、神が与えてくださる永遠の報いについて語られています。(マタイの福音書 10:41、テモテへの手紙Ⅱ 4:8、ヨハネの黙示録 22:12、マタイの福音書 10:42、ヘブル人への手紙 6:10、コリント人への手紙Ⅰ3:8)。 ルカの福音書 12:15で、イエスはこう警告しています:「注意しなさい。貪欲にはくれぐれも注意しなさい。どんな金持ちでも、人のいのちは財産とは無関係なのですから。」大切なのは、誰が一番多くの「物」を持っているかではありません。大切なのは、今この地上で、そして将来、神の御国で生きることができる、豊かな霊的な人生なのです。 コロサイ人への手紙 3:1-4でパウロは、キリストに従う私たちが何に目を向けるべきかを教えています。「キリストが死からよみがえられた時、あなたがたも共によみがえったのですから、天にある無尽蔵の富と喜びに目を向けなさい。そこでは、キリストが栄誉と力とを帯びて、神の右の座についておられます。地上のことをあれこれ気に病まず、天上のことで心を満たされていなさい。 一度死んだわけですから、あなたがたの真のいのちは、キリストと共に天の神のもとにあるのです。真のいのちであるキリストが再び戻って来られる時、あなたがたも彼と共に輝き、そのすべての栄光にあずかるのです。 」 。それは、待ち望む価値のある、すばらしい報いです!イエスは山上の説教で、まず神を求めるなら、私たちに必要なものはすべて与えられると教えられました。「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。」(マタイの福音書 6:33) 詩篇の中で、ダビデも、心を神に向け、神を第一にすることを教えています。「主を喜びとしなさい。 主は心の願いをみな、かなえてくださいます。」私たちが神を自分の宝とするなら、神が望まれることが、私たちの願いとなっていきます。そして私たちは、この地上の人生において必要なものを豊かに与えられ、やがて天において、永遠に神とともに生きることができるのです。(詩篇 37:4)
では、神が私に必要なものを与えてくださると、どうすれば信頼できるのでしょうか?
では、神が私に必要なものを与えてくださると、どうすれば信頼できるのでしょうか?
イエスは山上の垂訓で、私たちがこの地上の生活で必要とするものについて、心配しすぎる必要はないと教えられました。その代わりに、神を信頼することを望んでおられます。イエスは、マタイの福音書 6:8で、このように言われました「父なる神は、あなたがたに何が必要かを、あなたがたが祈る前からすでに、ご存じなのです。」神を知らない人々とは違い、私たちは、神が私たちのすべてをご存じであり、私たちに何が必要なのかもすべてご存じであることを知っています。考えてみてください。私たちがお願いする前から、神は私たちの必要をご存じなのです。 神は私たちの必要をご存じですが、それでも私たちが、子どもが父親のもとに行くように、愛と信頼、そして神への依存をもって神のもとに来ることを望んでおられます。イエスは「主の祈り」の中で、こう祈るように教えられました。「私たちに必要な日々の食物を、今日もお与えください。」(マタイ 6:11)これは、その日に必要なものすべてを意味しています。肉体的な必要だけでなく、心の必要、そして霊的な必要も含まれます。神神は、毎日、どのような場合でも、私たちのすべての必要を満たしてくださるお方であることを信頼してほしいと願っておられます。 ダビデは詩篇38:9で、神は私たちのため息さえも聞いてくださると語っています。「主よ。私がどれほど健康な体に戻りたいと思っているか、あなたはご存じです。私のため息は一つ残らずお耳に達したはずです。」神は変わらないお方です。私たちが口に出して祈る言葉だけでなく、心の中の思いや、深いため息さえもご存じなのです。 イエスは、マタイの福音書 6:25-34で、このことについてさらに教えてくださいました。「ですから、食べ物や飲み物、着る物のことで心配してはいけません。いのちのほうが、何を食べ、何を着るかということより、ずっと大事です。空の鳥を見なさい。食べ物の心配をしていますか。種をまいたり、刈り取ったり、倉庫にため込んだりしていますか。そんなことをしなくても、天の父は鳥を養っておられるでしょう。まして、あなたがたは天の父にとって鳥よりはるかに価値があるのです。だいたい、どんなに心配したところで、自分のいのちを一瞬でも延ばすことができますか。また、なぜ着る物の心配をするのですか。野に咲いているゆりの花を見なさい。着る物の心配などしていないでしょう。それなのに、栄華をきわめたソロモンでさえ、この花ほど美しくは着飾っていませんでした。今日は咲いていても、明日は枯れてしまう草花でさえ、神はこれほど心にかけてくださるのです。だとしたら、あなたがたのことは、なおさらよくしてくださらないでしょうか。ああ、信仰の薄い人たち。 ですから、食べ物や着物のことは、何も心配しなくていいのです。何を飲むか。何を着るか。ほんとうの神を信じない人たちのまねをしてはいけません。彼らは、それらがたくさんあることを鼻にかけ、そうした物に心を奪われています。しかし天の父は、それらがあなたがたに必要なことをよくご存じです。神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。明日のことを心配するのはやめなさい。神は明日のことも心にかけてくださるのですから、一日一日を力いっぱい生きなさい。」 神は、私たちが心配でいっぱいになってしまうことを望んではおられません。その代わりに、神のこと、神のみこころ、神のご計画、そして神が私たちの人生に与えてくださった目的に心を向けることを望んでおられます。私たちが神を第一にして歩むなら、神は必要なものを与えてくださると約束してくださっています。 神の数多くある御名の一つに、「エホバ・イルエ」があります。これは、「主が備えてくださる」という意味です。(創世記22:14)アブラハムが、息子イサクの代わりにささげるための雄羊を神が備えてくださった時、アブラハムは神をこの名で呼びました。 神は、アブラハムがどこにいるのか、何を必要としているのかをすべてご存じで、まさに必要な時に備えてくださったのです。(創世記 22:1-19) 神は私たちをこれほどまでに愛してくださっているので、イエスの十字架上の死を通して、罪の赦しと神との和解の道を備えてくださいました。(ローマ人への手紙 4:25)もし神がそこまでしてくださったのであれば、私たちが必要とするほかのすべてのものも、備えてくださらないでしょうか?ダビデは詩篇84:11で、こう宣言しています。「神である主は、私たちの光であり、守り手であるからです。主は恵みと栄光を下さる方であり、ご自分の道を歩む者に、 良いものを下さらないことがありません。」
良い行いをする時、その動機は重要なのでしょうか?
良い行いをする時、その動機は重要なのでしょうか?
良い行いは大切です。しかし、すべての良い行いが同じというわけではありません。大切なのは、正しい動機で行うことです。そして何よりも、人々の注目や称賛が私たちではなく、神に向けられることが大切です。 イエスは山上の垂訓の中で、マタイの福音書 6:1-2において、このことについて教えられました。「気をつけなさい!人にほめられようと、人前で善行を見せびらかさないようにしなさい。そんなことをすれば、天の父から報いをいただけません。貧しい人にお金や物を恵む時には、偽善者たちのように、そのことを大声で宣伝してはいけません。彼らは人目につくように、会堂や街頭で大げさに慈善行為をします。いいですか、よく言っておきますが、そういう人たちは、もうそれで、報いは受けているのです。」人から拍手や称賛を受けることを求めて良い行いをするなら、その称賛はすぐに消えてしまいます。 しかし、神のために、神を喜ばせるために行う良い行いは、神の前に永遠の価値を持つのです。 イエスはマタイの福音書 5:16でこう言われました。「あなたがたの良い行いを輝かせなさい。そうすれば、人々がそれを見て、天におられるあなたがたの父を、ほめたたえるようになるのです。」。気づきましたか? スポットライトは、私たちではなく、神に向けられなければなりません。 マタイの福音書 23章で、イエスはパリサイ人の偽善について語られました。5節で、イエスは「彼らのやることと言ったら、人に見せびらかすことばかりです。」と言われました。 神にとって、動機は大切です。私たちは、なぜそれをしているのでしょうか?神は私たちの心を調べ、私たちを動かしているものが何なのかをご覧になります。箴言 16:2 にはこうあります。「人はいつも自分が正しいと思います。しかし、主もそう思っているでしょうか。」ですから、私たちが行うすべてのことが、私たちの栄光のためではなく、神の栄光のためとなりますように!
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